フジロックにSEALDs奥田愛基出演への批判、若者が馬鹿なのか
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金曜から今日まで開催されている、野外音楽イベント「フジロック・フェスティバル’16」に学生団体 SEALDs(シールズ)の奥田愛基氏が出演するというんで、ネットでは賛否両論が湧き起こった。
そんな中、6月24日放送の『荒川強啓 デイ・キャッチ!』に出演した宮台真司が「フジロックのSEALDs奥田愛基氏出演で考える、音楽と政治」と題して、いつものように回りくどい上辺だけの発言をしていた。内容は以下の通り。
宮台真司の見解
昔からやってるよ。馬鹿じゃないの。
まず結論から言うと、若い世代の知的な劣化と感情の劣化の両方を現していますよねぇ。
(奥田さんの出演は)特別な意味はないです。
ロックフェスにはトークイベントが付き物で、トークイベントでは、たとえば原発の事故があったときにはね、原発問題に関するトークをしていたりっていうのは当たり前のことで、ロックっていうのはもともとね、そのルーツがプロテストソングであったり、あるいは反戦平和を訴えるラブ&ピースのような新しい価値を訴えるほうにポイントがあって、非常に政治的なムーブメントと結びついていたという歴史があるのでね、少しでも歴史を知っていれば、例えばね、ロックってどこから始まったのか知っているだろうか。楽器を持ってる奴がみんなヴォーカルで演奏するっていうのは、ビートルズが始めたんですね。
で、ビートルズはボブ・ディランに影響を受けて、ほどなくラブソングをやめて、抽象的な、あるいはよく分からない歌詞、あるいは活動としての反戦平和運動に連なるような歌詞っていうふうにシフトしていって、それが大きなムーブメントを生み出したでしょ。
むしろ、ロックから政治が脱落していった歴史がロックの頽落の歴史なんだっていうことを知らない馬鹿が五万と若い奴にいるということが問題なんだよね。
(以下、ロックや日本音楽の説明が続く)
出典:荒川強啓 デイ・キャッチ! 16.06.24放送
これを聞いて、
「なーんか違う。ズレてる。そこじゃない」
という強い感覚あった。
しかし、それほど関心がなかったため忘れていたのだが、昨日モーリーの呟きを見て、わたしがその時感じたモヤモヤはこれが原因だったと理解した。
モーリー・ロバートソンの見解
あれから幾山河。2016年の夏、「フジロック」には学生活動家のSEALDsがスピーカーとして招かれ、政治とロックはどの程度の距離を保てばいいのかが一部で論争となっている。ぼくに言わせれば、フジロックというフェスがすでに本質的にロックとは呼べない。
— モーリー・ロバートソン (@gjmorley) 2016年7月23日
ノスタルジーや仲間意識に裏打ちされたロック風味のテーマパークである。黄昏行くロック・ビジネスに後からおまけとしてSEALDsや「アベ政治にノー」がトッピングとして追加されたところで、再びロックが黄金期を迎えるとは思えない。
— モーリー・ロバートソン (@gjmorley) 2016年7月23日
こんな議論をそもそもしなくてはならないことに驚いているが、改憲に反対することは、果たしてロックなのだろうか?逆算して考えてみよう。「アベ政治にノー」というメッセージを聴いて17歳の多感な少年は首筋の毛が逆立つような、言葉にならない興奮を覚えるだろうか?
— モーリー・ロバートソン (@gjmorley) 2016年7月23日
吸い込まれそうな狂気を感じ、しばし躊躇した後に自分の意志で飛び込むだろうか?「アベ政治」はむしろ繰り返し選挙で多数派の有権者から支持され続けてきた陳腐な存在だ。巨悪に仕立てあげるには、なんというのか、物分りが良すぎる相手だ。「アベ政治」と戦うことは、そもそも知的な怠慢である。
— モーリー・ロバートソン (@gjmorley) 2016年7月23日
むしろ、今「ロック」と呼べる玉座に座っているのは世界のあちこちで同時進行している扇動政治(ポピュリズム)や原理主義やテロではないだろうか。そこを解説してみよう。かつてロックがやったことを、今はさまざまな原理主義が代わりにやっている。
— モーリー・ロバートソン (@gjmorley) 2016年7月23日
右派のトランプ氏、左派のサンダース氏、英国のコービン労働党首、イスラム国、アルカイダ、その他のさまざまなイスラム原理主義、旧ユーゴのセルビア人地区に充満する排他的な民族主義、クルド人のテロを辞さない独立運動。
— モーリー・ロバートソン (@gjmorley) 2016年7月23日
それらには通底して「ロック」な狂気がある。若者たちは背中を押されるでもなく、そこに自分から飛び込んでいく。
——-以上、ティーザーでした。本編の掲載をお楽しみに!
— モーリー・ロバートソン (@gjmorley) 2016年7月23日
呟きを沢山並べてしまったが、まさにこれなのだ。
両者の違い
宮台真司は、
ロックから政治が脱落していった歴史がロックの頽落の歴史なんだっていうことを知らない馬鹿が五万と若い奴にいるということが問題なんだよね。
と言い、
モーリー・ロバートソンは、
ぼくに言わせれば、フジロックというフェスがすでに本質的にロックとは呼べない。
「アベ政治」と戦うことは、そもそも知的な怠慢である。
と言った。
宮台真司は、「ロックの歴史を知らない若者が馬鹿」と言い、
モーリーは、「フジロックがすでに本質的にロックじゃないし、『アベ政治』と闘うことは知的じゃない」と言っているのだ。
これって、方向性が真逆ですよね。
宮台真司の意見は、ロックの歴史を語りそれを知らない若者が馬鹿だと罵るのみで、現在の時代の背景やなぜ若者がそんな声を上げたのかに対して冷淡だ(これが社会学者か・・・)。しかしモーリーの意見には現在における分析が加味され、アベ政治と闘ったところで知的じゃないぞと断じている。
わたしはこの件に関して、モーリーの意見に共感する。
・・・と、若者でもないおじさんとわたしが若者について考えを巡らせているわけですが、フジロックに参加する若者は、奥田愛基氏にロックを感じていないし、そもそも宮台真司が言う本来のロックなど求めていないのではないかと想像するのです。
何事も歴史を知ることは有意義だし学ぶことも多いけど、当の若者は今に生きているわけでそんなの知ったこっちゃないし、原理主義のように守る必要もない。多様な意見があるのは当然のこと。
そうやって時代の変化と共に新たな文化が生まれるのだと思います。
それを若者は馬鹿だと断定し、現在の分析を行うこともなく歴史を押し付けようとするなんて、わたしから見るともはや老害です。