【安保法制】村田晃嗣「学者は憲法学者だけではない」「極端な議論を排せ」
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今日(13日)の衆院平和安全法制特別委員会で、公明党推薦の村田晃嗣同志社大学長(国際政治)が、見解を述べました。
言って欲しかったことを言ってくれた感じがします。
村田氏は2014年7月11日付の公明新聞で「公明党が与党の中で慎重な態度を取ったことで、手続きの面でも中身の面でも、議論をより緻密かつ慎重に進めることができた」などと語ってはいますが、あの公明党が村田氏を推薦しなければならないほど、日本の議論が崩壊しているのではないかと思ってしまいます。
憲法学者や野党の現実的でない議論ばかりがまかり通る昨今、非常に不安になります。先日、維新の党案の説明を聞きましたが、これも現実を無視した空論に見えるところがあり、非常にがっかりしました。なかなか中身のある議論が進みません。
今回の村田氏の話も、「言って欲しかったことを言ってくれた」と書きましたが、中身の議論に至っているわけではありません。
まだ、「現実を見てちゃんと議論をしましょうよ」という段階の話です。
いつまでこの状態を続けるつもりなのでしょうか。現に、すぐ近くでルールも法も関係ない国が好き勝手にやっていて、核の脅威もあるのに、日本では「憲法違反だ!」「戦争をするのか!」「地球の裏まで行くつもりか!」とやっている。
そしてその議論ばかりが正しいかのようなマスコミの論調・・・。
滑稽すぎます。
(見出しやテーブルは、ブログ主が勝手につけています。)
Point
この法制は、憲法だけでなく安全保障上の問題でもある。多くの安全保障の専門家が今回の法案に肯定的な回答をするだろう。
仮想事態の想定について「100%明確に定義し、曖昧性を払拭しなければ、法律として成り立たない」ということでは非常に難しい。
国際情勢をあいまい、不明確として、国際情勢を憲法違反であると断定したところで、国際情勢そのものは変わらない。
理解を深めるために、2つの極端の議論を排して、安全保障を考えなければならない。
国際情勢の急速な変化
背景には、主要国の力の変化、安全保障のボーダーレス化の進行がある。
私は、法律学者ではなく、国際政治学者です。国際政治学者として、個人の見解を述べる。
まず、今般政府が安全保障に関する法案を提出している背景として、国際情勢の急速な変化というものがある。それは、グローバルにも、日本を取り巻く、東アジア太平洋地域、イリージョナルな面でも起こっていることだと思う。中国が経済的に急速に力をつけ、おそらく2024、25年には一時的にGDP規模でアメリカを抜くのではないかとみられているが、大きな経済力を、軍事力やさらには外交的に転嫁しようとしている。
その中で、米国の圧倒的な優位が、完全に崩れたわけではないが、旧来に比べれば、米国の影響力が、後退しつつあり、わが国は、経済的に、相対的に地位を下げ、少子高齢化に直面している。
こうした主要国の力の変化、さらには安全保障のボーダーレス化の進行がある。
日米同盟の強化は理にかなっている
日本と米国は、価値観を共有している
とりわけ、サイバー空間や海、空、宇宙といったグローバルコモンズでの安全保障環境のボーダーレス化が一層進んでいる。
こうした中、日本、米国は、2つの市民社会が共有する価値観の幅が広いということ、どのような国際環境が自国にとって望ましいかという国際環境についての認識目標についても、まったく同じではないが、共有の度合いが非常にとても高い。
そうした中で、日米同盟の強化にあたることは、極めて理にかなっている。
最近、日本と中国、日本と韓国との関係において、改善の兆しが見えてきているが、この背景にも、日米同盟の強化が効果を及ぼしているのではなかろうか。
学者は憲法学者だけではない
この法制は、憲法だけでなく安全保障上の問題でもある。
多くの安全保障の専門家が今回の法案に肯定的な回答をするだろう。
これまでの安全保障をめぐる法案での議論では、法律の議論について、いろいろ議論されているが、そもそも政治が流動的で、大きく変わりつつある国際情勢についてどう認識しているのか。国際情勢についても大きな議論がやや不足しているのではないか。その点について、与野党が、しっかりと国際情勢認識について、議論していただくことが大切な前提ではないかと思う。もちろん憲法の精神を守らなければならないのは、言うまでもない。
わが国が、国際社会の責任ある一員であり続けること。軍事力は国力の重要なコンポーネントの一つであるが、わが国は、もしその必要があるときも、軍事力の行使については、極めて抑制的にそれを行使する。その大原則、方針にかなったものでなければならない。憲法の学者の中では、今回の法案については、憲法違反であるという考えられる方が多いと承っている。
私は、国際政治学者ですので、憲法学者のご専門の知見には、十分敬意を表しながら、あえていうが、今回の法案はもちろん、憲法上の問題を含んでいるが、同時に、安全保障上の問題である。もし、今回の法案についての意見を、憲法の専門家の学会だけでなく、安全保障の専門家からなる学会で、同じ意見を問われれば、多くの安全保障の専門家が今回の法案に、かなり肯定的な回答をするのではなかろうか。学者は憲法学者だけではないということ。
国際情勢を憲法違反であると断定しても、国際情勢は変わらない
仮想事態の想定について「100%明確に定義し、曖昧性を払拭しなければ、法律として成り立たない」ということでは非常に難しい。
国際情勢をあいまい、不明確として、国際情勢を憲法違反であると断定したところで、国際情勢そのものは変わらない。
あと、存立危機事態、重要影響事態は、概念としてなかなか理解しにくい、あいまいな部分を含んでいることは否めない。ただ、これらの事態のかなりの部分は、幸いにしていまだほとんど起こっていない事態の想定であるということ。仮想事態の想定について、すべての100%明確に定義し、曖昧性を払拭しなければ、法律として、成り立たない、ということは非常に難しいと思う。
今回の法案は、すでにある、さまざまな安全保障上の法律の間隙を詰めていって、シェイプアップするものであるが、例えば周辺事態法における周辺事態の概念にも、ある種のあいまいさが伴っていることは否定できない。
そして国際情勢の変化が、科学技術の向上とあいまって、いっそう大きく早くなっている。そうした中、国際情勢をあいまい、不明確として、国際情勢を憲法違反であると断定したところで、国際情勢そのものは変わらない。
両方の極論を排した安全保障議論
自衛隊が地球の裏側まで行って戦争するという議論や、秘密保護法の関係で、国会で十分な判断ができないという意見は、極論。
自分と見解の異なる人たちを、売国的であるという批判も極論。
理解を深めるために、不寛容の精神を乗り越えていかなければならない。
侵略と防衛について。侵略について、明確なコンセンサス、定義はない。しかし一方で先の大戦でアジアにおいて行った多くの行為が、かなりの部分で、侵略といわれてもしかたない側面を持っていることは否定できない。明確に定義できないことと、何が侵略であるかが、個別に判断できないのは別。先の大戦では、アジアにおいて行った行為のかなりの部分についてまで、その侵略性を否定するというような議論を流布すれば、戦後、自衛隊という実力組織を持って、自衛に徹してきたという戦後の正当性が損なわれるであろう。明確に100%定義できないからといって、個別の事柄について侵略かどうかの判断ができないというわけではない。
他方で、国際情勢の流動化、科学技術の進歩に伴って、全ての事柄について、明確に防衛と侵略の一線を必ず引けるかというと、それは非常に難しくなっているのが現状。
2つの極端の議論を排したとところで、安全保障を考えなければならない。
中には、今回の法案が通れば、自衛隊が地球の裏側まで行って戦争するという議論があるが、自衛隊には、そのような能力が多分に欠けていると思う。また、自衛隊がそのような行為を取るときには、政府の政策判断があるだろうし、国会の議論や承認がある。
(特定)秘密保護法の関係で、国会で十分な判断ができないという意見もあるが、もしそうであれば国権の最高機関である国会が乗り越える措置をとればより、さらに仮に政府が、提案している法案が、国会で認められて、立法が成立しても、これで終わりではなく、むしろ始まりであろう。法律ができた後も、運用をめぐって、さまざまな形で、国会だけではなく、民間で不断のオープンな議論を続けていく必要がある。
今、オープンと言ったが、この法案に対して否定的な意見の専門家や、一般の人もいるのは承知しているが、だからといって「戦争法案だ」との表現で議論をするところから、安全保障についても理解の深まりというのは得られない。
他方で、しかし、自分と見解の異なる人たちを、売国的であるというレッテルを貼って批判するという議論からも、深まりは生まれない。
こういう2つの議論は、共通の土台、つまり不寛容の精神から生じている。そういう不寛容の精神をわれわれは乗り越えていかなければならない。
外交安全保障の問題は、首都だけのものではない
もう一つ、今回の法案について、地方の議会からも懸念の声が上がっている。安全保障や外交の問題は東京だけの問題ではない。日本全体で、深く常に議論されなければならない問題である。そういう意味では、安全保障の問題を地方でも、しっかりと議論できる環境を整備しなければならない。外交安全保障の問題は、首都だけのものではない。
今日の公述人でも首都圏以外から出てきているのは私だけだ。安全保障の問題を正面から深く議論できるような、工夫をぜひ考えていかなければならない。
「希望の同盟」として機能するために
最後に、4月から5月にかけて、安倍晋三総理が訪米をされたが、その際米国の連邦議会で、総理が演説されたときに、日米同盟を「希望の同盟」と呼ばれた。私は、大変魅力的な表現だと思うが、日米同盟が「希望の同盟」とは、どういうことなのか。もっと言うならば、希望とは何か。希望は単なる欲望ではない。欲望は、個人の利益の追求。希望は欲望ではない。希望には公共性というものがなければならない。そして希望は、単なる願望ではない。願望は、現実可能性を無視しても良いが、希望には実現可能性が伴っていかなければならない。希望は、単なる待望ではない。待望は、待っていればよいが、希望には主体性、能動性が求められる。
そういう意味で、日米同盟が、21世紀を支える国際公共財として、希望の同盟として機能するためには、そうした公共性と、実現可能性と、当事者意識、主体性が必要であろう。
さらに、仮に今回の法案が成立したとしても、日米同盟関係では、沖縄という、非常に大きな難しい問題を抱えており、ここで前進が見られなければ、日米同盟の強化が図れないわけなので、この法案の国会だけでの議論だけで完結するのではなく、引き続きさまざまな観点から、安全保障について、その公共性と、実現可能性と、主体性について議論できる場をもっていくということが大切である。
参考文献:産経 2015.7.13 13:26